悪夢の乗り越え方

42年位前、名古屋の営業所でドライバーをしていたときの朝礼での廣本課長の話

「お前たちは恵まれている、富士店へ行ってみろ、配達の荷物でホームは唸っている、天井まで荷物が積み上がり、ホームからはみ出た荷物が下に置いてある、伊豆のコースは山ばかりで集める荷物はなく、毎日満車で300キロ走り配達しきれず帰るのは翌朝でそのまま荷物を積んでまた出発する・・・」

その後、廣本課長は富士店の店長となり、ドライバー応援要員として呼ばれて富士店に。

2週間程度のつもりだった応援期間は、結局15年。それが今、静岡に住むきっかけとなりました。

始めて富士店に行ったときみた光景は「たしかに荷物が唸っている」

天井まで配達荷物が積み上げられ、ホームの端の壁は見えず、置ききれない荷物が下に置いてある。

片腕骨折したドライバーが三角巾を巻いて4tを運転している。ドライバーがどんどん辞めていくので、骨折程度では休めない様子だ。

1日の走行距離が150km以内の近隣コースは、毎日満車2回戦+即配で3回戦

そこで担当したのが東伊豆コース

山ばかりで集める荷物はなく、毎日満車で300キロ走り配達しきれず帰るのは翌朝でそのまま荷物を積んでまた出発する・・・という噂のコース

誰も続かないコース

引継ぎまでのツーマンのときは帰ってくることができたものの、単独になってからは「その日に帰るのはかなり困難」というコース。

だから誰も続かない、一番長く続いたのは鈴木マサという前任ドライバーが3か月くらいというコース。マサにしかできないコースだったけれど、そのマサも続かなかった。

ジタバタと全力で走った。毎日、荷台は積載オーバーの満車で屋根に長物の荷をくくりつけ、キャビンの上にも荷物を載せて、一日の総走行距離は280kmちょっと、時に噂通り300kmを超える。配達個数が180~300個くらいで定期集荷25件なのでおそらく毎日、トラックと配達先までの荷物を担いだ障害物競争的な全力ダッシュを150本以上していたと思う。

不思議なもので日曜日はいつも以上に走行距離があるのに少しだけ荷物が少ないため何故か少し気持ちが休まる。そのため月曜日は元気だが次第に体力がもたなくなり木曜日金曜日になると、疲れ切って、深夜、帰庫する途中の、旧国道の一本道で寝てしまう。

その日に帰ることができず、早朝になって営業所に戻ると「積んどいたぞ」と係長が別のトラックに、その日の配達荷物を積んどいてくれている。もちろん「満車」。

差し替えて出発。

そんなある日、天城山を越えて海側に出る前の宅配で思いっきり時間がかかってしまった。中伊豆という地域で地図にはない家がたくさんある。そして玄関付近に墓はあるが表札がない。地元の人しか知らない村がある。本線を一本入ると道には目印になるものがない。そしてかなり奥地に家がある。

1件の配達に時間がかかり、途中のゴルフクラブに上って下りて、ようやく天城を超えて海側に出たのが午後3時。

まだ、数件の配達しかしていない、荷台の中は、8割以上の荷物が残っている。あと3時間以内に最終集配地である稲取まで配達を進めなければならない。なぜならば稲取にある商店街は午後6時になるとシャッターが閉まってしまうから。直線距離では10数キロでも、その間、大川、北川、熱川、片瀬、奈良本という配達地域に6割以上の配達がある。

絶望的とはこのことを言う

これは、絶対「夢」だ、こんなことが現実に起こるわけがない。どう考えたって、こんな物語を作ったとしたら、非現実的すぎて笑い話になる。

これは単なる夢なので、目の前にある荷物をポンと軽くたたけば、消えてなくなる。

それで、ポンとやったら

パッシ!!

夢ではなかった。

悪夢というのは、それが現実だったとき本当の「悪夢」になるというのを知った瞬間だった。

そこから先は、もう考えるのをやめた。悩んだり考えたりしてもしかたがない。

ひたすら配達を進めて稲取に行く。それだけだった。

その日、そのあと、どうだったかは覚えていない。でも、何十年もたっても、あの瞬間の悪夢を夢で見る。それは起きれば消える夢。今は「懐かしい」と思うだけの夢になっている。

その後も、その会社では、現実離れだけど現実の悪夢を何度も見た。あの瞬間があったから、その悪夢の先に進むことに違和感はなかった。どんなときも、どんなことがあっても、その先にはちゃんと道がある。あれは、それを知る機会だったと思う。

「悪夢」の乗り越え方

それは簡単である、学習塾時代には時々子供たちにそれを教えた。

「悪夢」を見たら、何も考えず、ひたすらそれに向き合う。悩む必要もつらいとか悲しいとか思う必要は一切ない。

そして、時が過ぎたら、振り返る。

それだけ

「悪夢」の先には必ず道があるので。